フラッシュカード全盛の時代に

このところレッスンに使えるゲームを探していて,いろんな教材・教具を見ていたのだけど,何でもかんでもフラッシュカードが作られていることに引っかかりを感じた。特に日本の早期教育系の教材では,その傾向がやたらと強いようだ。なんか違うんじゃないかと思わずにいられない。

A=Bだったら常にB=Aといった数式が成り立つコンピュータとは違って,人間の知識というものは,たとえA=Bが正しいとしても,ときにはA<Bだったり,A>Bだったり,A≠Bだったり,A=B+Cが正解だったりすることもある。柔軟性があるというか,ある種のいいかげんさや曖昧さがあるのが人間の知識なのだ。なのにフラッシュカードは常にA=Bで固定されており,それ以外の回答は間違いだと仄めかしている。その場限りの“条件”に対する配慮もなければ,解釈の幅というものもない。

以前,「お月さまはthe Moonよ」といった教え方は違うんじゃないかと書いたときの疑問と,根っこは同じことだ。

カード化された“知識≒データ”は孤立している。もちろん,他のカードと系統だてて並べたり,グルーピングしたりすることで関連をつけていくことはできるだろうけど,それはあくまでもデータ間の連関であって,アナログ的な結びつきや関係や相互作用は感じられない。おまけに,カード化することで「覚えるべきことはこれだけ」であり,あとは余剰として切り捨てられているような感じがしてしまう。ひとつの言葉で表せるもののなかの多様性も排除されている。レベル分けされ,段階がつけられていることで,覚える順序まで決められているようにも感じる。

人間の言葉の世界は,そんなに整合化され,システマチックなものではないはずだ。

そう,わたしが気にしているのはカード化に体現される物語の不在もしくは分断なのかもしれない。

言葉というものは,実はかなりぼんやりとした輪郭しかもっていない。物語(背景や文脈)があって始めて,その言葉には「意味」が与えられる。「apple」と書いてあるカードについている絵は,まず間違いなく真っ赤なリンゴだが,そうやってひとつの「正解」に固定することで,黄色いappleもあれば,緑のappleもある*1し,熟して赤くなる以前の実だってappleだし,アップル風味の紅茶があるように“apple”といわれるものの実態がある種のフレーバーだけだという場合だってあるという現実/事実は消されてしまう。

もちろん,フラッシュカードは導入にすぎないのであって,代表的なものでまずは覚えたら,あとは,たとえばスーパーのリンゴ売り場でいろんな種類のリンゴを見るといった日常的な経験で,カード上の知識が補足されていくのだという反論も成り立つだろう。

でも,そうだとしたら,最初からスーパーのリンゴ売り場で,あるいはリンゴの木を見せて,もしくはリンゴに触らせたり,かじらせたり,皮をむかせたりすることで,いろんな種類のapplesがあること,appleの全体像を体得させることだってできる。

しかし,なにごとも体験させるには労力と時間が必要になる。何十種類ものフラッシュカードを用意しておき,それをめくっていくほうが,はるかに簡単なのだ。

フラッシュカードがこんなに大量に出回っているのは,いろんな経験を通じて学ばせるのでは効率が悪いという判断が働いているためだろう。*2その裏には,おそらく浅い「知識」でいいから大量にインプットしようという意図もまた働いているのだろうけど。

フラッシュカード全盛のもうひとつの理由は,カードを用いることで,こどもの学習成果が計測可能なものになることではないか。

子どもは何でも丸覚えする。

だからカードを片っ端から見せていけば,どんどん覚えていく。「ここまでやれば200語学んだことになる」というふうに、学習を数値化できるようになる。それはこども自身にも達成感を与えるかもしれないが、それ以上に,単に教師や親にとっての安心材料になっているのではないか。そうだとすれば要注意だ。(当然ながら、学習は子ども自身のために行われる活動であるべきだ。)

さらにその裏には,「単語の意味さえ分かればどうにかなる」という単語・文法重視の日本人英語教育の悪癖が残っているようにも感じられる。実際には,ひとつふたつの単語の意味など分からなくとも,文脈さえつかめればどうにかなるものなのに。「知らない単語」に気を取られて,「木を見て森を見ず」になる人の何と多いことか。少なくとも,わたし自身もそうした傾向をもっていると自覚しているので,多読(extensive reading)をすることでこの悪癖を克服しようとしている。そのほうが,はるかに「英語をしゃべれるようになる」と見てのことだ。

先日、ある家のパパが小学生の子どもに毎日20語ずつ英単語を覚えることを課しているという話を聞いた。それでお子さんは,英語が好きですか?と伺ったら,パパの命令だからといやいややっているのだという。それではなかなか身につかないだろう。そのパパもまた,10年来英語をずっと勉強し続けているのに,その成果はいまひとつ上がっていないのだそうだ。おそらくそのパパ自身も,「単語の暗記」に頼った勉強法をしているのだろう。残念ながらその努力は間違っている。実のところ,英語は努力よりも慣れがものを言う。まさに「習うより慣れよ」であって、特に子どもの場合にはそれが当てはまる。いやいややっていては、いくらインプットしても立て板に水。子どもの中に取り込まれるインテイクの量が減るばかりだ。

英語を暗記科目に分類するのも全くの間違いだ。高校のとき,英単語を20個ずつ宿題で丸暗記させる先生がいた。翌朝,その20語についてミニテストが行われたのだが,そのテストでいつもほぼ満点の子がいた。でも,その子の英語の成績は必ずしも良くなかった。丸暗記が苦手なわたしは,いつもせいぜい12問しか正答できなかったが,英語の成績そのものはクラスで群を抜いていた。

英単語の丸暗記能力と総合的な英語の能力は別物なのだ。

となると,フラッシュカードによる丸暗記は,総合的な英語力を高めるのにはあまり役立たないかもしれない。

おそらくフラッシュカードは,もともと英語ネイティヴの子どもたちが言葉を覚えるための教具として開発されたものだろう。しかし,英語圏の子どもたちにとって,フラッシュカードは「未知の単語を覚えるため」に使われるわけではない。どこかで見たり聞いたりして漠然と身につけている知識に輪郭を与え,確実なものにするために使われるものなのだ。その事実に立ち返るべきだ。

それに引き比べ,見たり聞いたりしたことのない言葉を特定の絵や文字の並びに強引に結びつけるためにフラッシュカードを用いることは,意味をもつ実世界から切り離されたパブロフの犬的な反射訓練でしかない。Easy come, easy go.といわれるとおり,子どもは覚えるのも早いが忘れるのも早い。フラッシュカードを全廃せよと言っているわけではない。フラッシュカードで丸暗記させるだけではダメだと言いたいのだ。暗記させても,意味の網の目のなかに位置づけていかなければ簡単に消えていくということを念頭において,賢く導入すべきなのだ。

そして何よりも,こどもにとってそれが「調教」ではなく,「楽しい体験」であるように導入してほしいと心から願わずにいられない。

*1:今日のレッスンで、英語を学び始めたばかりの3歳の子が、おもちゃの緑のリンゴを手にした瞬間、ためらうことなく"apple!"と言ったのに、ちょっと感激してしまった。

*2:それにしても、子ども用の英語のフラッシュカードや辞典で、発音をひらがなやカタカナで書くのはやめてほしい。あれは単語の発音に自信のない親用なのだろうか? もしそうなら、親用のブックレットを別につけたほうがいい。ひらがな表記の発音(たとえばappleの代わりに「アッポー」とか)を子どもたちに読ませるのでは、かえって発音が悪くなるんじゃないか? 何よりも、いちいち日本語を介して英語を捉える悪癖をつけてしまうように思われる。