英語“いくじ”の基本に戻って

励ましのメールをいただいた。このところ、わたしがしんどそうにしていたから、心配をかけちゃったかな。捨てる神あれば拾う神あり、ですね。本当にありがとう。

その方も書いてくださったのだけど、わたしの「英語いくじ」の考え方を知って、ほっとした、楽になった、目から鱗が落ちた……などと言ってくださる方と、しばしば出逢います。どこがいいのかな? わたしのセミナーに来てくださった方々のなかには、たとえば「子どもの犠牲になることはない」「子どものためではなく、自分のために英語を学んでいいし、かえってそれが子どものためにもなる」「親が楽しんでいればこそ、英語環境を作れるし、長続きする」といったメッセージによって、子どもに英語を学ばせたいという以前に実は自分自身が英語を学びたかったのだと気づいて、自ら勉強しはじめた(“英語育自”しはじめた)ママたちが何人もいます。

あとは、幼児教育の“必要性”をそんなに言わないところも、ホッとできる理由なのかもしれませんね。たしかに小さい子は耳がいいけど、だからといって「今のうちに」って強要するのではなく、楽しい範囲で、英語“いくじ”していくことをお薦めしているし。どうしてもダメなら、無理強いすることはないもんね。楽しい範囲内で子どもが「自ら育っていく」のをゆったり構えて見守るような育児がいいと思うから。あるいは、「小学校低学年までは耳優先」と言っていることで、そんなに焦ることはないのだと、ほっとするんでしょうか。どれも、わたし自身があれこれ悩みながら考え続けてきた結論なのですが。

「英語育児」や「英語子育て」は、それを楽しんでいられるうちはいいんです。思うようにいかなかったり、成果が目に見えなかったり(それが多いのですが)、もっといい方法がありそうだと思ったりして、焦り、悩み、苦しむ人も少なくありません。

英語子育てや英語育児という言葉が一般化したのと、「0歳からの」「知育」がブームになったのは、ほぼ同じ頃だと、わたしは見ています。以前から早期教育や英才児教育は言われていたけど、特に“英語”が脚光を浴び、しかもそれが“0歳から”に低年齢化し、“乳幼児”英語教育が一般化したのは、2000年前後のこと。NHKの「英語であそぼ」も、たしかその頃に始まっています。ニューズウィーク日本版の「0歳からの教育」を特集したムックが売れに売れたのもその頃です。*1

だけど、そうしたブームの発端になったか、少なくとも煽る結果になった脳科学上の発見や、教育心理学的知見といったものは、だいたいにして誇張されています。賛否両論ある説の一方だけ不当なまでに肩入れしていて、批判は完璧に無視していたり、ご都合主義的な説が多いんですネ。そして、強引な論調の裏にはたいてい商業主義が絡んでいる。「手遅れになる前にこの教材で英語をシャワーのように浴びせましょう! そうしないと、あなたのお子さんは落ちこぼれる!」……と煽る。そんなわけないでしょう!?と反発する人でも、少なくとも「何かしなくちゃいけないんじゃないか……」と、つい思わせられてしまうくらい、幼児英語教育は強大なトレンドになっている。

確かに幼児は耳がいい。好奇心も旺盛だし、何でも丸覚えする。子育てしていると、「この子って天才かも?」と思うことが、一度や二度はあるものだけど、そういう経験と何かが重なると、親もついつい欲張りになり、それと共に献身的になってしまう。我が子の才能開花のためならばと、持てるものをすべてつぎ込んでやりたくなる……。

だけど、待てよ。親も自分の人生を生きている。「すべてをつぎ込んで」親が自分を捨て、子どもの犠牲になるのって、いいこと? 子育て期間は、人生全体を見ればそんなに長いわけでもないけれど、まるごと捨てるには長すぎる。だったら、子育てのために何かを捨てるのではなく、子育て中だから得られるもの、子育て中だからこそできること・楽しめることをやれないものだろうか? そこで得られた経験を、親のその後の人生にも活かしていけたら、そのほうがいいでしょう?

こんなことを書いていて、「そうか」と思った。上記のことは、わたし自身にも当てはまる。優先順位を考えるときの指針になる。

英語いくじの基本は、子どもの英語力アップを目指すのと同時に、親も英語力アップを目指すこと。そして、親子一緒に英語を楽しむことだ。一緒に英語を楽しめるような環境を作ることだ。

無理はやめよう。いやな気持ちになるのなら、それはどこかが間違っている。人はついつい欲張りになりがちで、欲張りになって無理しているときに、人は笑顔にはなれないものだ。

ハクナマタタ……という言葉の響きがステキなのは、この言葉を口にするとき、人は笑顔になるから……かもしれない。

*1:実はわたし自身もその記事の一部を訳しているんですが……。