日本語で構築する英語の世界

ついさっき外出先でテレビがかかっていたもので、偶然、こんな話を耳にした。鳩山家がなぜ歴代東大に入れたのかというので、鳩山家伝統の英語の勉強法が紹介されていたのだ。へええと思って聞いていたら、それが「先に日本文を読み、理解できてから、どの単語がどの言葉に該当するのか英文を見て推察する」というやり方。

ちょっと待ってよ。

そういうやり方が必ずしも悪いと断言するつもりはないけど、わたしは、そりゃーまずいよと思った。それだけで“東大に入れる英語力がつく”なんてうのみにする人はいないだろうけど、根本的な発想が間違っていると思うのだ。第一、それじゃあは英日対訳がある素材しか扱えない。英文を英文のまま理解して、英語の世界のなかで自分なりの意味を構築するということを練習できない。日本語に概念のないものを学べなくなる。コミュニケーションとしての英語力は、「日本語では間に合わない」「英語しか使えない」場面で威力を発揮するのだから、常に日本語を参照して英語を理解するクセをつけてしまっては、またしても「しゃべれない日本人」を作ってしまう。

しかし、考えてみたら、英語を学ぶ目的が受験に勝つことだという人にとって、英語はコミュニケーションの道具ではないのかもしれない。そもそもわたしとは発想が違うのだから、ここで心配する必要はないのかもしれないけれども。

でも気になる。