新年最初のレッスン

過去日記です。おうちの都合で何ヶ月か英語に触れていなかったお子さんが、以前なら難なく聞き取れていたはずのスピードの英語の会話文に対して拒否反応を示したのを見て、子どもというのは入るのも早いけど、消えるのも早いということを痛感。今後、どうやって取り戻していけるのかを見守っていこうと思う。

一方、片付けものをしていたら、娘が赤ん坊の頃に入っていた某多言語習得研究所(H研としておこう)のCDが出てきた。懐かしい。H研の考え方は大きくは間違っていないと思うし、わがやの娘の英語環境作りはH研の理論に(もちろん、厳密に、ではないけれど)基づいている。ただあそこから派生したL研究所の方法は、我が家では採用していない。つまり、英語と日本語を交互に(間髪なく)聞かせるという方法だ。あれは通訳や翻訳の訓練としては悪くないかもしれないが、英語を使ってものを考え、英語を道具として使う能力を伸ばすためには向いていないと(もともと翻訳者の)わたしはみている。英語は英語だけで与え、日本語は日本語で別に与えるというのが、我が家方式だ。(ただし、子どものほうから「これは英語で何? 日本語で何?」と聞いてきたときには、必要最小限の答えを与えている。)

今は全く関係がないが、H研とのつきあいはなかなか面白いものだったし、ホームステイをばんばん受け入れたのも(おかげで英語以外の言語に興味が出たのも)、あのグループに関わっていたことが一因であり、いい経験をさせてもらったとは思っている。また今でも娘があやしい英語で歌を歌っているときなどに、H研では「切れ込む」ということを言っていたよな……と、しばしば思い出したりもしていた。英語を最初はぼんやりとした流れとして捉えているのが、徐々に精密になっていき、細かいところまで聞き分け、発音し分けることが可能になるという考え方だ。そのような「自然習得」を可能にするためには、大量に「聞く」ことが必要になる。わたしたちは母国語で、まさにそうしたことをやりながら言葉を習得している。

しかし、わたしたちのようなEFL(English as a foreign language)の環境では、それだけでの習得はほとんど不可能だ。だから適切な「介入」が必要になる……と今は思っている。自然習得だけでは限界がある。ただ、その“適切な”介入の度合いが難しいわけだけどね。いずれにしても、インプットを絶やすことだけは避けなければならないし、娘の英語環境に変化を与えるためにも、もう一度、掛け流しをやってみてもいいかも……などと思ったりもする年明けだった。