コミュニケーションの英語

前にも書いたけど、基本的にわたしは「女の味方」のつもり。出産・育児のために子ども中心の生活を余儀なくされている女性たちのあいだに、「英語いくじ(子育てだけじゃなくて母も育自)」を提唱していくことは続けていきたい。なぜって、小さいときは、親も巻き込んでの家庭での英語環境作りがいちばんだし、それは母親自身のブラッシュアップにもなると、わたしは自分の経験から信じてるから。

それに、今の加熱している「英語教育ブーム」の中だからこそ、最終的に英語嫌いを作ってしまう恐れのある「子どもへの詰め込み英語教育」にはノーを言いたいし、授業への好奇心を奪ってしまう中学英語の前倒し英語授業、外国人コンプレックスに基づいたネイティヴへの過剰期待にも警鐘を鳴らしたい。

ところで、先日ふと、何で自分が英語が好きになったのかを考えてみた。そもそも小学生のときに、父の仕事のためにアジアやヨーロッパの人たちがちょくちょく家に来るようになったのが発端だった。どの国の人が来ようとも、共通語は英語だった。それで“Hello!"とか“Good night!”といった挨拶を覚えて、「通じた!」ときがものすごくうれしくて、「次はこう言ってやろう……」みたいなことを考えるようになった。そういう状況が続いて、小学5年生くらいのとき、父が英語の教本を買ってきてくれた。わけもわからず、とりあえず遊び感覚で途中までドリルをやったけど、結局、投げ出してしまった。そういうのよりも音がおもしろかったからだ。父は「英語が苦手だったから理系を選んだ」という人だったので、たまたま仕事上、やらねばならなくなった英語とひどく苦闘していた。父が深夜、一人でリンガフォンを使って勉強していたのを覚えている。なにしろ父にとって、にわかに英語は「仕事のために必須!」のものだったのだから、さぞかし必死だったことだろう。一方のわたしは、昼間、父のリンガフォンを聞いて遊んでいたものだ(正直、ろくに理解してはいなかったが)。

ともかくも、そうやって外国のお客さんが家にくるようになってから、酔っぱらった客人たちが、ピアノが得意なわたしに「何か弾け」とリクエストしてくることがしばしばあった。その頃、よく来ていたのはドイツ人とフランス人だった。ショパンやベートーベンなどクラッシックも弾いたけど、ビートルズを弾くと、みんなよく知っていて、大合唱になり、みんなで輪になって踊り出したものだった。ビートルズって世界中の人が知っているんだ! すごいなぁ……と思って、その頃から、ビートルズの曲をせっせとコピーして弾き、歌詞も覚える動機ができた。Let it be.が、どう聞いても「レルビー」にしか聞こえないのが不思議だったが、まるごと真似した。。

一方、中学になった頃から、NHKの基礎英語から順に、一連の語学番組をよく聞くようになった。そのうち、ラジオ/テレビの英語会話だとか、(時代がばれちゃうけど)百万人の英語なんかもよく聞いた。一方、英語のポピュラーミュージックも、ロックも聴くようになった。日本人歌手が歌っている英語の歌詞なんかも、こまめに辞書でひいて意味を理解して悦に入ったりしていた。勉強しているという意識は皆無だった。その頃までに、英語はすっかり趣味だったからだ。実際、手のひらサイズのかわいい英語のポエムの本なども集めたりしていた。高校では当然のごとくESS(English Speaking Sciety)に入った。ラジオ英会話を使った、今でいうシャドーイングをさんざんやらされた。

高校一年のとき、英文法の先生(ご当人の発音はひどいものだったけど……今や心から感謝している)から、「夏休み中に、高校三年間使う英文法詳解の参考書を全部やってみなさい」と言われた。すでに英語が大好きだったわたしは、「それは名案」とばかりにどんどん参考書の問題を解いてしまって、おかげであとで非常に楽をすることになった。

高校一年と二年の夏は、YMCAのサマーキャンプ(奉仕作業)にも行った。そこでもアメリカ人の男の子たちとビートルズ友達になって、ヒマさえあればピアノの前に行って、ビートルズの歌をうたっていた。英語の夢を見る……というのを、この15歳のときに初めて経験した。同じ頃、英語で日記を書いてみたり、文通なども試みた。

今、振り返ってみると、わたしはコミュニケーションの英語、しかも英語の「音」から先に入っている。帰国子女ではない同世代の日本人と比べると珍しいケースかもしれない。そのためか、わたしは英語が「記憶もの」だと思ったことが一度もなかった。ただ好きだから英語に触れ、英語に触れる密度が濃いから覚えただけだった。(実際、学校で「次の授業の前に小テストするから覚えてくるように」などと予告されたうえで記憶させられた20単語の小テストなどの点数は、惨憺たるものだった……わたしは丸暗記が大の苦手なのだ。)今でも「英語は(語学は)慣れ」だと、本気で思っている。

そもそも英語は、父が仕事で使うものだったし、わたしは趣味で……つまりお客さんと話したり、歌ったりするのに必要な道具だった。わたしにとって英語は、それ自体が目的だったことがないのだ。大学受験のための英語も特に勉強しないままに終わった。それでいいのだと、今でも思っている。受験のための「引っかけ問題」に引っかからないために答えを「丸暗記」するような勉強は、実践ではほとんど役に立たないのだし。

こういう考え方をしている母の元で育つ我が娘は、いったいどのようになるのか不明ではあるけど、とりあえず、今のところは英語の成績だけは抜群だし(いちおう、うちの教室に来ている他の2人も英語だけは成績がいいそうだし)、外国人のお客さんが来てもものおじしないし、英語絵本のよみきかせなどにも積極的に出ようとするのだから、(サイトワードが読めなくても、英語の綴りがはちゃめちゃでも……)まあいいかと、当面は思っている。