塾ごっこ(+α)

ファミリーネタです。子どもは「ごっこ」が大好き。うちの娘もご多分に漏れず、お店屋さんごっこから誕生日パーティごっこ、学校ごっこ、発表会ごっこ(歌やピアノ、踊りを見せてくれる)などをよくやるのだけど、今日は塾ごっこを始めた。白い紙をセロハンテープでつなげて大きい紙を作ったので、何かと思っていたら、「問題を書いて」と持ってきた。なんと「そろばん塾ごっこ」なのだ。これは初めて。

空想のお友だちを作り(それぞれに性格まで決めている)、タイマーをセットし、わたしは先生役でセリフを割り当てられる。

ところで、問題を作っているあいだに、国語のドリルをやらせてみた。絵を見て「女の子が……」「猫が……」の「……」の部分に術語を入れて文を完成させる問題があった。自由記述だ。

そろばんの問題を書き終えて顔を上げると、娘が自分の答えを採点していた。全問にでかでかと×をつけている。「何て書いたの?」と聞いたら、「女の子が本をよんでる。」「猫がねてる。」……ドリルの“正解”は「女の子が本を読む。」「猫がねる。」……この“正解”を見て、娘は間違ったと思ったらしいが、そうだろうか? 娘の回答は、口語をそのまま書いたという意味では、たしかに不適切かもしれない。しかし、これは“間違い”と言えるのか。かなり疑問だ。

算数なら「正解」は一つだ。しかし、言語に関しては「たったひとつの正解」がない場合はいくらでもある。(模範解答が“最も良い”と断言できないことも、ままある。)もともと言語は、「よく使われている標準的な用法」がいちおう“正当だ”と評価されているだけで、「絶対的に正しい言葉」があるわけではない。

実際、言葉はどんどん作られているし、日々、変化している。「一生懸命」という言葉は、かつては紛れもない「間違い」だったけど、今や「正しい」表現だとみなす人が少なくない。逆に、もともと正しかった「一所懸命」を「間違いだ」と見る人だって、今や増えているだろう。言葉は場所によっても変わる。「マム(お母さん)」という同じ言葉なのに、イギリスではMumと綴り、アメリカではMomになる。イギリス人は感嘆詞としてFantastic!と叫ぶが、名詞抜きでこの形容詞だけを叫ぶのはアメリカ人の耳には間が抜けて聞こえるという。文法的に正しいかどうかとは別の話だ。単に、誰も使わない言葉や表現は「変」であり、それゆえに「間違い」だとされる。

言葉は生ものであり、生きている。それを捕まえて、「使いこなす」のは一種の技(アート)と言えるかもしれないなぁ……。

はてさて、塾ごっこから話がだいぶ長くなってしまったけれども。(このログの後半は、過去日記として長々と付け足しましたです、はい。)