お稽古事と親の期待と

昨日、年中さんがいる近所のママに、某大手学習教材会社の“教室”に通わせていて週2回で8000円払っているのだけれど、このままでいいだろうか?――と相談を受けた。うちの子が通っているそろばん塾は何歳から通えるのか?――とも質問された。

「そろばん塾は1年生からみたいだし、そんなに焦らなくていいんじゃない?」と答えたけれど、同じ年の子でカタカナを読めるし、漢字も書ける子もいるそうで、「今はみんな早い」とのこと。だけど、そんなに急いで詰め込んでも、その先どうなるかは分からないよ……と、つい思ってしまう。

子どもは親の期待を裏切るものだ。それは肝に銘じておきたい。

だって、もし、どの子どももすべての親の期待通りに育っていたら、あるいは子どもたちが無尽蔵に「知識」を溜め込んでいく倉庫だったら、今ごろ、日本は秀才・天才の子どもで溢れかえっているはずではないか。何しろ教育熱心な親は増えこそすれ、決して減ってはいないのだから。だけど実際には、放っておいても頭の回転の速い子もいれば、手を変え品を変え教えてもなかなか覚えられない子もいる。それに、小中学校の頃は成績が良かったのに先細りになる子もいれば、何かをきっかけに、突然、輝き出す子もいる。当然ながら、とおり一遍の知識を教え込んでも、必ずしも学力がつくとは限らないし、その子がもつ特殊な能力が開花するとも言えない。

これは自戒を込めて言っている。わたし自身、娘の計算能力や国語力をどうにかしようと、いまだにあたふたしている。

もし、お稽古事を続けるかどうかで迷ったら……現に自分の子どもが楽しんで学んでいるか、負担になっていないかどうかで判断すればいいと思う。新しいことを始めるときも同様。子どもにとって楽しめることで、親にとっても、子どもにとっても、負担(金銭的、送り迎え、他に犠牲にするものごと……等々)が少なければ、始めてみたって悪くないだろう。ただし、よその子と比べて、「いつかあんなふうになってくれるかも」みたいな漠然とした期待をもって、無理を強いるのは、やめておいたほうがいい。「今は可愛そうだけど、この子の将来のため」というのも、親のエゴだと知ろう。

チャンスを与えること自体は悪いことではない。いろいろ経験させることだ。ただし、それに飛びつくかどうかは子どもしだい。好きなことは放っておいてもやるようになる。好きなことを見つけるために、いろいろやらせてみるのは一つの手だけど、最終的に「無駄」になっても構わない、それもひとつの経験だ……と思える範囲に留めておきたい。子どもへの投資が大きければ大きいほど、つい期待も大きくなるし、それが裏切られたときの怒りや空しさも大きくなるのだから。

なんてことを言いながら、あまりに多い娘のお稽古事に、どれかを削ったほうがいいのだろうか、他のこと(お友だちとの関係など)を犠牲にしていないだろうか……と悩ましい。他人のことはある程度判断がついても、自分の娘のことになると、わたしもただの一人のバカ親だよなぁ……と、つくづく思わずにいられない。