「赤ちゃんが落ち着いたら戻ってきてください」

2年前、石川子ども劇場に入った。東京にいた頃から子ども劇場(「子劇」と略す)の活動は知っていたので、娘が小学校に上がったら入会しようと思っていた。なのにいろいろあって(一年生のときは片道小一時間かけてインターナショナル・スクールのサタデースクールに通わせていたこともあって)、入会しそびれていた。入ったきかけは、ちょうど2年前くらいに行われた劇団風の子「ぞうのエルマー」だったと思う。

Elmer (Elmer Books)

ぜひ観せたいと思って入り、観せて(入って)よかったと思った。劇場が呼んでくる作品は、まず外れがないし、自分では選ばなかったであろうジャンルにまで、娘の経験を広げてやれる。こうやって地方に住んでいて、上質の演劇に触れる機会はどうしても限られてくるので、その意味でも劇場の存在は貴重だ。だけど、それだけではないな……と思わされるようになってきた。

もちろん、子劇に入る第一のメリットは、いい作品を鑑賞できることだ。だけど、子劇の活動は決してそこには止まらない。むしろ子劇に特有であるのは、演劇や音楽やパフォーマンスなどのさまざまな公演に主体的に関与できることだと思う。公演への関与だけではなく、様々なお楽しみ会を自分たちで立案・企画し、相談しながら「創りあげていく」体験もできる。

昨夜は子劇恒例の「まつり」のために実行委員会が開かれた。行ってみて、高校生や大学生、社会人までの“青年たち”が、自然体で、大人たちに臆することもなければ顔色を見ることもなく、自主的に、活き活きのびのび、だけど自分とは違う意見にもきちんと耳を傾けながらやっているのに感心した。突然、ああはなれないはずだ。子どもの頃からの積み重ねがあって始めて、自分の意見をしっかり言いながらも自己チューではなく、他人への思いやりも忘れない若者に成長していくんだなと思った。(誉めすぎ? でも、昨日はけっこう感心してしまったんだよ。)

子劇では、当番制で各催しの開催をお手伝いする。来てくださるアーティストにお茶やお弁当を準備したり、会場入り口の看板や飾り物を作ったり、当日はチケットのもぎりもする。親のボランティアだけではなく、子どもたちもそうした活動を手伝うことになっている。うちの娘は、開演直前の「アナウンス」の役が大好きだ。たとえば、「携帯電話の電源はお切りください」「小さなお子様がぐずったら、いったん外に出て、落ち着いたらお戻りください」「公演のあいだは会場内を歩き回ったりしないで、静かに最後まで楽しみましょう」……といった注意事項を、お客さんの前に出て大きな声でアナウンスするのだ。小学校低学年にとって、一年に一度は巡ってくるこの手の「お仕事」は、とても大きな体験になる。(ちなみに……最初の頃は、どぎまぎして言うべきことを忘れたりしないように、携帯電話の鳴っている絵の上に大きく×をつけた絵を画用紙に描かせ、その裏に言うべきせりふをメモしておく。だがほどなく、それくらいのことは難なくこなせるようになる。)そこらへんから始めて、年齢が上がると共に、少しずつ活動の場が広がっていき、「お手伝い」から「主催者」にまで育っていく。

《子ども劇場》の子どもたちは、単なる「観客」として舞台を鑑賞するだけに止まらず、舞台裏も学んでいく。「演じる人々」がどれほど入念な準備をしているのか、お客さまに楽しんでもらうために脚光を浴びない場でどれほど多くの人が力を投入しているのか……つまり「提供する側」の視点をもつように育っていくのだ。最初はおっかなびっくりのほほえましい開演前のアナウンスの仕事を経ることで、子どもたちは携帯電話の音が鳴り響くことで、舞台が始まってから足音高く入ってくる人がいることで、せっかくの感動的なシーンが台無しになり、多くの人の努力が水の泡に帰してしまうことを学んでいく。靴のかかとがコツコツ響くのが舞台ではいかに迷惑かを学んでいく。裏を知り、裏にいる経験を経ることで、結果的に、観客としてのマナーも学ぶようだ。

14日に子劇の主催で開かれたロバの音楽座の公演の明くる日、同じ音楽堂で0歳児から入場できる子ども向けのコンサートが開かれた。我が娘はなぜかこの手の小っちゃい子向けクラッシック・コンサートが大好きで(たぶん、おしゃべりしても大目に見られるためと、演目が分かりやすいから、そして風船などのおみやげがもらえるためだろう)、これまで何度も足を運んでいる。ところが、15日のコンサートはあちこちでマナーの悪さがあまりにも目に付いた。気持ちよく鑑賞できた前日とは打って変わって、不快な体験がいくつも続いたことで、さすがの娘も「今日は泣いてる赤ちゃん、多いね」と不満げだった。

「0歳児からのコンサート」というのは、「子どもが泣きわめいていても構わないコンサート」ではないはずだ。子劇の公演前のアナウンスのように、「泣き出したら(あるいは騒ぎ出したら)いったん外に出て、落ち着いたら中に戻る」というのが暗黙の了解のはずである。

なぜなら、第一に、物理的に子どもが泣きわめくなかでは「音楽」が聞こえなくなる。それでは何のためのコンサートか分からない。それが何人も、何十人もがあちこちで騒ぎ出したら、コンサートホール全体の誰も音楽を鑑賞できなくなる。第二に、自分たちの演奏が「聴いてもらえない」ようでは、演奏している人々もさぞかしがっかりすることだろう。今回のコンサートでは、消え行くヴァイオリンや、静かに入ってくるチェロの音色などが、全くもって聞き取れないということが何度かあった。演奏者の一人はむっつりとした表情で楽器を鳴らしていたように見え、なんだかとても申し訳なく感じてしまった。演奏者が気持ちよく演奏できなければ、観客もいい音楽を聴くことはできない。そして第三に、子どもの教育上、非常に重要なことだが、そんな経験は泣いている子ども自身にとってもいいものではない。子どもが泣くということは、何かしら不快な状態に置かれているということだ。暑いのかもしれないし、疲れてきたのかもしれない、お腹が空いたのか、退屈でたまらないのかもしれない。ともかくその「不快」な状況と「音楽」とが子どものなかで結び付いていったら、どうなるのか……音楽嫌いの子どもができあがるかもしれない。

あまりにもひどかったと感じて、出口でアンケートを書いていたら、憤然たる様子の男性がつかつかと近づいてきて、すごい勢いでアンケートを書きだした。思わずちらりと見てしまったら、「せめて3歳以上にすべき……」という文句が見えた。この人も、泣いている赤ん坊の多さに憤ったのだなと思った。

赤ちゃんをクラッシック・コンサートに連れていきたいという親の多くは、赤ん坊の頃から本物の音楽と接するのは子どもにとって良いことだと信じているはずである。情操教育というわけだ。しかし、クラッシック音楽が、「嫌でも、退屈でも聞かされるもの」になってしまったら、情操教育どころではないだろう。

もちろん、なかには「自分が聴きたいだけ」でコンサートにやって来た親もいるかもしれない。だが、胸に抱いている赤ん坊が泣き叫んでいる状態では、自分自身も鑑賞どころではないのでは? 自分の経験からしても、赤ん坊が泣き出したら諦めていったん外に出て、落ち着いたら中に入る。そのほうが親子にとっても、周囲の人々のためにも良いはずだ。結局、長年の経験をもつ子劇恒例の開始前のアナウンスは、妥当な線だと思われる。

同じことが英語のイベントやレッスンにも言える。子どもが嫌がっているのに「せっかく来たのだから」「お金を払ったのだから」「少しでも聞かせたいから」などと、子どもを叱りつけてでも会場に残ろうとする親御さんを時々見るが、あれは英語嫌いをわざわざ作るようなものだろう。音楽も英語も、決して強制してはだめで、「楽しいからやりたい」と子ども自身が思うように仕向けていきたいね(^-^)。